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日常と生産

2015/10/26 0 Comment

長崎県にある伊王島

高島に縁があり、ここに滞在しました。
当時は船移動のみ。
現在は、橋が掛かり車で渡ることができるようになりました。
良かったのか、どうなのか。

これからの生産でしょうか。

個々に、良かったねと至れるような架け橋になれるように、生かす
良かったという面も生活面からすると多岐に在るんだと思います。
「その時点ではわからない」
日常生活がどのようになるのか、「…したい。…なる」と感じるのか。
その積み重ねの先に、「良かったね」っとあることが実に良い架け橋になるのでしょうか。

伊王島の灯台伊王島教会

きっかけに始まる

ここからが始まりにあり、日常にどう落とし込まれるか。
「日常と生産」
この関係性に、持続性が隠れているように感じています。
新たに起きる日常に、無い事柄は、きっかけで、機会。
それらをどう日常に生かすか。誰が、国が、県が、市がどうこうでなく自分
時間だけが刻々と流れて行きます。それもあり。流れを感じて、流されます。
あ〜っと、目の前を流れて行く回転寿しの得たいものを得ている自分であるか
又は、回転寿しは、動いていない。自分が流され(回され)ていて、
堂々巡りをしていないか。

時より、離れてみる機会を日常に設けてみる

ちょっとした旅でも大切だなっと感じました。

稲佐山より長崎市

動き、異なる視点に出逢う

「動きながら」

サッカー戦で、パスを通したい。仲間も相手も動きその隙間を突きます。
そこにあるのは、流れ
個々の流れ、チームの流れ、ボールを視るのか、人を視るのか
視ようとすると見えない「間」
必要なのは、間。間に、ボールや人が走る。
間に、可能性が生まれる。そこには、何も見えません。そう、見えてくるのは
個々が、その間に観る、観たいイメージ。物理的には、何もないわけです。
ところが共通して生み出される動作が、ボールを惹き付け連動します。
不思議ですが、それが自然と生み出されてゲームが形成されていきます。

間にイメージを生む

そのためには、周囲を視、流れを感じ、自身がどう一日を取り組むか。
なのかなっと、またそれが何のためであるか。「何の為か」
日々に、何回問うかわかりませんが、見失いがち。なぜか。
わかっていない。腑に落ちていない。身に付いていない
そういうことなのでしょうね。日常と生産をどのように暮らすか。
このあたりの積み重ねでしょうか。
感謝

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